(6)ポリバケツに魂を売った日本語教師
インドの冬は寒い。
真夏は連日50度近くのうだるような暑さが続くが、12月になると朝晩は0度近くまで冷え込む。
私がインドに赴任して3ヶ月経った頃、しんしんと寒さが歩み行くようになった。
海外では普通のことなのだが、社宅には浴槽がなかった。
シャワーヘッドはあったのだが、3分の2の穴が何故か塞がれていて
申し訳ない程度にしか水が出なかった。
夏はいいが、冬は地獄だ。
致命的なことに、給湯器は10リットルくらしかお湯を沸かせない小さな小さなものだった。
TOTOによると、1分間のシャワー流量世界平均は9リットルらしい。浴槽は200リットルほど貯めることができる。
社宅の給湯器もトイレも「TOTO」というロゴが付いていたのだが、何故1分間しかお湯を浴びることができない代物を世に放ったのか世界のTOTOに問い正したかった。
毎日風呂に入ることが嫌で嫌で堪らなかった。
20リットルくらい水が入るバケツに、何度も何度も給湯器でお湯を沸かしては入れ
ヤカンで沸かしたお湯を加えて、正座をしてガタガタ震えながら毎日お湯を浴びていた。膝は真っ赤になっていた。
案の定、体調を崩した。
インドの辛い食べ物と21連勤に疲弊した体に菌が入り込んだ。
どうして21連勤かというと、校長から嫌がらせを受けていたのだ。
愛の告白を受けてから、私は意図的に校長から距離を取るようになり
個人的な誘いは全て断る様にしていたのだが、圧倒的な力関係の下で
休みを奪われるという形で制裁を受けていた。
その晩は高熱にうなされ、15分おきに襲いかかる嘔吐・下痢と格闘しながら朝を迎えた。
トイレが壊れるくらい吐き散らかして、便器にしがみついて震えていると
今まで見えなかった世界を見ることができた。
「TOTO」だと思っていたロゴは「TOYO」だったのだ。
Yは限りなくTに近い、緩めの角度だったが確実にTでは無い。
TOTOがあんなクソみたいな給湯器を作っていなかったことに、朦朧としながら安堵した。
日本から持ってきたインスタント味噌汁を時間をかけて、宝物の様に1口1口飲んだのだが
15分の嘔吐タイムと重なり、無情にも全て吐き出して出社した。
授業中、立っているのもままならない状態で、全く授業にならず自習とした。
頼りたくは無かったのだが、生徒に迷惑をかけてはいけないと思い
校長の元へ、病院へ連れて行って欲しいと依頼しに行った。
校長「薬は飲んでいるのか」
私「抗生物質と胃薬を飲みました」
校長「薬が飲めるのならまだ大丈夫じゃないか。」
信じがたい返答だった。
薬を飲む事もできない仮死状態まで陥いらないと
どうやら病院へも連れて行ってもらえない様だ。笑
流石に好きな女に対して冷たくし過ぎたと反省したのか
校長は、ガム一粒くらいの大きさはある
オレンジと黒のシマシマのカプセルをもってきた。
校長「インドの下痢にはこれが一番効くから飲んでみなさい」
俄には信じられない様な不気味な薬だったが、体が辛過ぎた為
薬を服用した。ものの30分で効果が出た。
熱は平熱以下に下がり、下痢はピタッと止まり、体中がヒヤッとして
奥底から力が漲って、異常なテンションの高さで授業を再開した。
あの薬はなんだったのか。今でもたまに元気がない時、オレンジと黒のシマシマを心のどこかで欲している自分がいる。
今日はやけに馴れ馴れしい。久しぶりの会話が嬉しかったのか。
校長「どうして体調を崩したのか」
私「社宅の給湯器が小さいので、毎日お風呂で大変な思いをしてます。」
校長「よし、給湯器を買い換えよう。今日はさぞかし体が疲れているから、うちでお風呂に入れば良い。」
魅力的な提案だった。
校長の家の浴槽はでかかった。日本のソレとは似ても似つかぬバケツなのだが
ただのバケツではなくあの青いポリバケツなのだ。
後にも先にもポリバケツにあれ程まで、羨望の眼差しを向けたことは無いだろう。
あたたかいお湯をポリバケツ一杯にためて、その中に腰まで体を沈める自分を想像し
「ポリバケツに入らせてください」と気付いたら呟いていた。
好きだと言われた男の家の風呂をノコノコと借りに行ったのだ。
節操の無い女だ。自分に呆れる。
風呂上がりにお酒や肉を振舞われ、
校長「仲直りできて嬉しい」とご機嫌だった。
まずい事になったと思った。
ポリバケツに魂を売ったがため、この男は今晩私と寝れると思っている様だ。
やんわりと断り、帰宅したいと申し出る。
校長「今日はもう遅いし、お風呂にも入ったし、このまま寝ていけば」
ふざけるなという感じだが、どうしても勝手に帰宅できない理由があった。
立ち上がると130cmくらいになる真っ黒なドーベルマンを校長は部屋の外で飼っていたのだ。
ドーベルマンは校長の指示しか従わない。
私のことを見ると喉が潰れてしまうのでは無いかとこちらが心配になるくらい、けたたましい声で吠えちぎるのだ。
その為、校長の庇護の下で外に出ない限り、「=死」が待ち受けている事になる。
必死で無い頭を振り絞り、「パンツにウンコがついているので今日は帰らせてくれ」と嘘をついた。
校長も「そうか」と承諾した。
流石にパンツにウンコがついている女は願い下げの様だ。
私の体はウンコによって守られたのであった。