(20)被告人:酒癖悪美。インドで訴えられる。
転職して2ヶ月が経過し、新しい会社での仕事に少しずつ慣れてきたころ、それは突然やってきた。
母から慌てた調子でメッセージと書類のスキャンが送られてきた。
「悪美ちゃん、英語で書かれた書類が送られてきたんだけどわかる?
よく理解できないけど、Courtって裁判所だよね?!」
田舎に住む60を過ぎた母は、英語は話せないものの、辞書片手に
ハリーポッターを原書で読む、なかなかファンキーな女性だったので
ことの重大さを理解して直ぐに連絡をよこしてきた。
そのメッセージを受け取ったとき、私は車で次の営業先へ向かうところだった。
社用車の中で、「criminal offence 犯罪」とか「high court 高等裁判所」という
入試の長文でしか触れたことのなかった単語が飛び込んできて、ガタガタ震えた。
母から送られてきた書類にざっと目を通す。
どうやら私は訴えられているようだ。
原告:校長
被告:悪美
罪状:小切手の不渡り
この手紙を受け取った2週間以内に
残高不足で不渡りになった小切手の金額を口座に入金すること。
弁護士を通じ、インドから海を渡り、電車が1時間に1本しか走っていない田舎町へ郵送された手紙は
なかなか大きなインパクトがあり、母子ともにパニックに陥った。
説明しておくと、インドにはボンド制度なるものがある。
研修期間終了後、直ぐに社員が離職することを防ぐために
研修後○年以内(大体1-3年)に離職した場合は違約金(通常数十万円)を支払わせるという制度だ。
ちなみに日本ではペナルティを課して労働者の離職を制限することを法律で禁じられている。
確かに、新卒社員に半年間みっちり研修を受けさせ、資格取得の資金を出資し
やっと一人前の社会人としてデビューするタイミングで、転職されたら、企業としても許しがたい。
わたしが契約書にサインするときも「インドでは大概の雇用契約書にボンド制度が定められているよ。本校ではものすごい酷いことをしない限り5年以内に離職してもペナルティを課さないから安心して」と校長から説明を受けていた例の文言だ。
私の場合は、日本語教師の資格を自費で取得していたし
そもそも赴任して翌日には3クラスを受け持っていたので研修など何も受けていない。
払う義務などないと思い込んでいた。
サインしたけど。w
そして、給料も2万5千ルピー×6ヶ月=15万ルピー(30万円)しか受け取っていない。
(そもそも初任給は盗まれて、ATMで感電しているし。)
にも関わらず、受け取った金額の4倍120万円を支払えと高等裁判所は言っている。バカなのか。
小切手にサインしたのは私なのだけどwww
別れ際に「お金を支払ってもらう気はない」と言っていたあの男の顔が思い浮かび
自分の愚かさに腹が立ち、怒りで体がわなわなと震えた。
急いで友人Nに書類のデータを送り、内容を確認してもらった。
彼女は本当に頼もしく、パニックになっている私に代わって
状況を会社の法務担当者に英語で説明し、助けを求めてくれた。
法務担当者の回答は「インドでは小切手の不渡りは刑事責任を問われるので
支払わなければならない。セクハラを受けた証拠が残っていたら、裁判で戦うこともできるかも」というものだった。
そんな証拠は残ってないよ、どちらかというと私が校長にセクハラ発言をしたドキュメントは残っているよ。
と言いそうになったが、会社での立場が危ぶまれると思い、友人Nにも法務担当者にも黙っておいた。
ここで、「トライアルクラスでセックスを教えたら入学希望者が増えるんじゃないですか」というドキュメントが
世に出てもらっては困るのだ。
会社の力は借りず自力で解決しようと決めた。
先ず私は、最近人気のLINE無料弁護士相談とお友達登録をした。
弁護士ボットが軽快なテンションで「何にお悩みですか?」と元気に問いかけてきた。
細かく状況を説明し、セクハラドキュメントを握られていることまで赤裸々に綴った。
ボットは相変わらず軽快なテンションで「金銭トラブルですね!担当者から折り返し連絡いたします!」と
こっちの気持ちなどお構いなしに元気に回答してきた。
翌朝、恐る恐るラインを開くと本物の弁護士から回答が来ていた。
「インドの法律は分かりません」と一言。携帯を思いっきりベッドに投げつけた。それはそうだと納得した。
気を取り直して他の方法を考えた。
インドに常駐する日本人の女性弁護士を紹介してもらった。
状況説明と合わせて、今回送付された訴え状と入社時に署名した雇用契約書一式をデータで添付して返答を待った。
セクハラドキュメントの存在はとりあえず伏せておいた。悪美だとバレたらふりになると判断したため。
程なくしてメールが返ってきた。
女性弁護士は本当に良い方で、「腹立たしいケースであり、何とか力になりたい」と申し出てくれた。
然し、小切手の不渡りは刑事責任を問われるので、期日である2週間以内にこちらから訴え返す必要があると言われた。
女性弁護士はインド国内の弁護士資格を持っていないのでインド裁判所で戦うなら、インド人弁護士を雇う必要があり、尚且つインドの裁判は簡単な案件でも数年かかるため、最終的に120万円の支払い義務を免れたとしても、それ以上に弁護士費用がかかると言われてしまった。
然し、彼女は正義感の強い人だった。
セクハラを受けた証拠が例え無かったとしても、悪美の証言を文書化して送りつけ支払う意思が無いことを示したら、示談に持ち込めるかもしれないと申し出てくれた。
これまで校長から言われたこと、された出来事をできる限り思い出して時系列でまとめて送って欲しいと提案してくれた。
それなら、文書作成だけなので数万円の弁護士費用で対応してくれるそうだ。
とんでもないことだと思った。
そんなことをしたら、反対に向こうから私のセクハラ発言が返送されてくるのが目に見えていた。
こんなに親身になってくれた女性弁護士を失望させ、蔑まれる様子が容易に想像できた。会ったことも無いのだけど。
トライアルクラスでセックスを教える提案をした女を誰が弁護したいというのか。
ここはドングリの様に低いプライドと自分の面子を守るために、潔く支払うことを決めた。
校長は最後まで策士だった。
そして、私は最後まであいつの策に溺れた。
あのドキュメントがある以上、示談になど持ち込めないのだ。
「身から出た錆」
「火のない所に煙は立たない」
この二つを座右の銘にして生きていくことを決めた。
女性弁護士は、とても悔しそうにしてくれた。
然し、私の決断に納得し、今後また何かあったらいつでも相談してくるように声をかけてくれた。
それから私は毎月22万円程度の給料を貰いながら、16万円返済し、8ヶ月かけて120万円を完済させた。
酒癖悪美がインドで起こした酒の失態-日本語教師編-